日米学生会議は1934年、満州事変以降悪化しつつあった日米関係を憂慮した日本の学生有志により創設された。米国の対日感情改善、日米相互の信頼関係回復が急務であるという認識の下、「世界の平和は太平洋の平和にあり、太平洋の平和は日米間の平和にある。その一翼を学生も担うべきである」という理念が掲げられた。当時の日本政府の意思と能力の限界を感じた学生有志は、全国の大学の英語研究部、国際問題研究部からなる日本英語学生協会(国際学生協会の前身)を母体として、自ら先頭となって準備活動を進めていった。資金、運営面で多くの困難を抱えながらも4名の学生使節団が渡米し全米各地の大学を訪問して参加者を募り、総勢99名の米国代表を伴って帰国した。こうして第1回日米学生会議は青山学院(現在の青山学院大学)で開催され、会議終了後には満州国(当時)への視察研修旅行も実施されるに至った。日本側の努力と熱意に感銘した米国側参加者の申し出によって、翌年第2回日米学生会議が米国オレゴン州ポートランドのリードカレッジで開催され、以後1940年の第7回会議まで日米両国で毎年交互に開催された。しかし、太平洋戦争勃発に伴い、日米学生会議の活動も中断を余儀なくされた。
戦争の終結によって会議は再開を見たものの、戦前とは異なり、1953年までは日本のみでの開催となった。翌1954年、戦後初の米国開催として第15回 日米学生会議がコーネル大学で開催されたが、その後、資金問題、日本人学生の参加者の不足、米国における財政援助の中断などに悩まされ、会議は1955年 から1963年まで再び中断された。
1964年、OB/OGからの会議再開を望む声に応え、会議創始者の一人である故板橋並冶が理事長を務める一般財団法人国際教育振興会の全面的支援の下に、会議が再開された。第16回会議はリードカレッジで開催され、77名の日本人学生と62名の米国人学生が参加した。1973年の第25回会議では、限られた日程の中での議論をより効率的かつ集中的に行うために、毎回テーマを設定し、期間を1ヵ月とするなど現在の会議の基本形態が整備された。 80年の歴史を持つこの会議において、最も意義のあることは、創設以来、その企画、運営を両国の学生が主体的に行っていることである。しかし創設時と今日で日米両国を取り巻く環境は大きく異なっており、会議の形態自体も変化を重ねている。日米両国が新たな関係の構築を迫られている現代において、日米学生会議は、創設当時の理念を受け継ぎつつ、時代の変化に対応してゆく柔軟性を求められているといえよう。
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