VOICE

参加者の声

公開日:2022.10.24

人生の転機となった日米学生会議:夫との出会い、教育からビジネスへの挑戦

第22回、第23回日米学生会議に参加。1949年生まれ。ハーバード大学教育学及びスタンフォード大学経営学修士。ハーバード大学日本語教師、ベイン・アンド・カンパニーを経て、1991年にコーン・フェリー・インターナショナルに入社。日本支社社長、会長を経て、2010年にG&S Global Advisors Inc.設立。その間、米国本社取締役を12年間兼務。2003年より花王、ソニーなど13社の社外取締役を歴任。2008年1月にビジネスウィーク誌の「世界で最も影響力のあるヘッドハンター・トップ100人」に唯一の日本人として選ばれる。
橘・フクシマ・咲江(たちばな・ふくしま・さきえ)第22・23回

【~日米学生会議との出会い~】

日米学生会議に参加しようと思ったきっかけは何ですか?

1970年の大阪万博でアメリカ館を訪れた際に、案内役が中国系アメリカ人の素敵な女性で、スタンフォード大学の学生でした。そんな折、英語を学ぼうと日米会話学院を訪れたら、「スタンフォード大学」と書かれた日米学生会議のポスターが目に飛び込んできました。父からは「是非行きなさい」と言われ、さらに前年に会議に参加した高校時代の友人が「すごく良かったよ」と勧めてくれて小論文のための本も送ってくれました。このようないくつもの偶然が重なって参加することになりました。

 

応募時は日米学生会議に何を期待されていましたか?

期待していたことは、アメリカに行くこと、アメリカの学生と話して友達になることでした。当時は、アメリカに行くのは憧れでした。私は戦後すぐの生まれで、小学校の頃から、学校教育では「アメリカは素晴らしい国で見習うべきモデル」と学んだ世代でした。ですから、米国に対する強い憧れがあったのだと思います。

 

当時の日米学生会議はどのような様子でしたか?「本音の対話」を売りにしていますが、当時は格式高いプログラムだったのですか?

当時は日本とアメリカの間で経済的及び社会生活上の格差があり、日本側は食事マナー講習会や発言内容に関する勉強会とか訪米にあたり「日本を代表して行くのだから、日本の恥になってはいけない」と周到な事前準備をしていました。

実際に訪れたシアトル、ポートランドでは、教会を通じて募集した中産階級の家庭にホームステイさせて頂きました。そこには、私たちがテレビ・ドラマを通してイメージしていた「良きアメリカ」の生活があり、体験することができました。

一方、その後訪れたスタンフォードではカウンターカルチャー全盛期でした。
日本人男子学生が、スタンフォードのキャンパスで女性がブラジャーを外して芝生で寝転んで日光浴をしているのを見てびっくりしていたのが今でも印象に残っています。サンフランシスコの広場でもヒッピーが寝転がっていたり、アメリカ側参加者で東海岸からヒッチハイクできている人がいたり。こちらは正装としてドレスを持っていったのですが、現地ですぐにジーンズを買いました(笑)。

訪米前に学んだマナーはホストファミリー宅では役立ちましたが、スタンフォードでは役に立たず、日本とのギャップがすごく大きくて驚きました。当時主流の中産階級であるホストファミリーでの伝統的生活と、カウンターカルチャーで自由を謳歌している学生達の生活の両方を体験することができて、すごく刺激がありました。

 

日米学生会議の議論はどのような様子でしたか?

日本側は周到に準備して日本国を代表しての意見を述べていたのに対して、米国側は参加者個々人が個人の意見を述べていました。例えば、日本人は「We Japanese」で事前の準備で用意した日本の立場を発言することが多いのに対して、米国人は「I」で始めて、個人の意見を述べました。

夫(グレン・S・フクシマ氏)も米国通商代表部時代に通商交渉の時に、日本の代表団は日本政府として意見調整をしているのに対して、米国側はそうではなく、日米学生会議のことを思い出したと話していました。

日米における会議の目的や位置付け、また教育で重視しているものの違いを感じ、この経験がのちに大学院で、異なる文化間の「インターカルチュラル・コミュニケーション」に関心を持つきっかけになりました。

 

その後日米でキャリアを築く中で、日米学生会議での経験はどのように活きましたか?

人生を変えたのは、後に夫となるグレンと出会ったことでした。彼と結婚していなければ、今のような人生を歩んで来なかったと思います。日米学生会議で結ばれたカップルは多く、昔はよく「結婚会議」とも呼ばれていました。宮沢元首相も奥様と出会われましたよね。私も会議の翌年にグレンが交換留学で来日して付き合って、大学卒業と同時に結婚しました。

  

                 ~JASCの縁で結ばれた二人〜

 

【~日米で日本語教育に携わる~】

結婚後、グレンはアメリカの大学院に行く予定でしたから、経済的にサポートする必要がありました。英語もあまりできず、職業経験もほとんどなかったので、アメリカ人と対等の仕事はとてもできないと悩んでいたところ、ある方から「じゃあ日本語を教えたらどうですか」とアドバイスを頂きました。グレンは日本関係のことを勉強するので、彼が行くところは必ず日本語のクラスがあるだろうと。そこでICUの大学院で日本語教授法を勉強しました。

その後グレンがハーバード大学に進学を決めた時に、それをICUの指導教官の先生にご報告に伺いました。そうしたら「今朝私の教え子でハーバードで日本語を教えている人から日本語の先生を紹介してくれないかと言われたのだけど、貴女行く?」と言われたのです。ものすごくラッキーでした。トレーラーを引いて大陸横断をして、ケンブリッジに到着し、東アジア言語文化科で教え始めました。

その頃は教えた経験もなく、全く自信がなかったので、とにかく徹夜で準備して頑張りました。一度私が道を歩いているときにグレンが向こうから来て、「咲江は世界中で私ほど不幸な人はいませんという顔をしているね」と言われました(笑)。それくらい教えることにすごくプレッシャーを感じていました。

でも1学期が終わったら、わりと学生の評判が良くて、「これが私の天職かもしれない」と勝手に思い込み「一生の仕事にしよう」と決めてハーバードの教育学の大学院に行きました。大学院では、特に異文化間での幼児の言語習得教育や日本と欧米の育児の歴史的差を研究しつつ、同時にハーバード大学の夜間の社会人を対象としたエクステンション・プログラムで日本語を教えました。

 

【~教育からビジネスへ~】

卒業後、また教えることに戻りましたが、コンサルティング会社で働いている私の友人が、「日本語とリサーチができる人が欲しい」ということで誘われました。せっかく、それまで一生の仕事にしようと思って日本語教育に投資してきたのですごく迷ったのですが、夫に「やってみなきゃわからないよ、意外にビジネスに向いているよ」と背中を押されてブラックストン・インターナショナル社に入りました。そこで、「数字で物事を考える世界はこんなに面白いのか」と思い、ビジネスを早く学ぶためにスタンフォード大学のMBAを取りました。

スタンフォード大学卒業後は、ボストンのベイン・アンド・カンパニーに入社して、ボストンと日本で勤務し、その後ベイン時代の同僚が声をかけてくれてコーン・フェリー・インターナショナルに移りました。そこでは2年ほどでアジア1番の売り上げを達成し、選挙で選ばれてアメリカ本社の取締役に就任して12年間務めました。その間1999年に株式を上場しましたので、それ以降はCEOと私だけが社内取締役でした。他の取締役は全員欧米の白人男性の社外取締役で、私だけがアジア人で女性でした。この間、社外取締役の方々から、アメリカのコーポレート・ガバナンスを学ぶことができ、大変貴重な経験でした。その経験もあって、2002年からはソニーや花王等13社の日本企業の社外取締役を務めて来ました。2010年にコーン・フェリーを退職し、個人事務所G&S Global Advisorsを立ち上げて現在に至っています。今の仕事は社外取締役が中心です。

日米学生会議に参加していなければ今のような人生はなかったと思います。グレンに出会ったのが人生の大きなターニングポイントでした。

 

最初は教育に投資し天職と感じたにもかかわらず、新しいビジネスというフィールドで挑戦しようと決断した背景はなんでしょうか?

ビジネスに挑戦するのはとても不安でした。私は本当に自信のない人間で、小学5年生の時に兄と同じ担任の先生に「お兄さんほどできないね」と言われたのがトラウマで、「自分はできなくてもいいのだ」と努力をしませんでした。自信がない上に、父親も源氏物語が専門の学者で、ビジネスの環境で育っていないので、迷いました。そんな時、「やってみなきゃわからないよ、きっと向いている」と背中を押してくれたのは夫でした。

当初は日本語教育に投資したものを全て捨てる覚悟だったのですが、ビジネスの世界に入ってみたら、決して、今までの投資が無駄ではなかったことに気が付きました。例えば私は教師でしたので、コンサルタントとして人前で話すことも平気でしたし、元々学問の世界にいたのでリサーチにも困りませんでした。もちろん最初は無縁だった数字が物を言う世界に慣れるのも大変で、必死に勉強しましたが、やってみたら色々なことが見えて面白く感じ始めました。

最初のチャレンジはすごく怖いのですが、必死に頑張って努力すると、「やってみたらできた」という経験が積み重なってだんだんリスクを冒せるようになったのだと思います。したがって、若い方々にはとにかくやってみることをお勧めします。例え何か失敗したとしても必ず学びがありますから。

 

日米両国で活躍する中で、苦労はありましたか?

日本語を教えていた時はまわりに日本語を話せる人が多く、教育学の大学院では発言の評価比率が低かったですし、また、ブラックストンでは日本関係のコンサルティングをやってきたアメリカ人が多くて、日本語が通じる人が多かったため、英語での苦労は少なかったのですが、スタンフォード大学のMBAでは発言が評価対象なので苦労しました。その上、平均年齢27.5歳のところ私は35歳でしたので同期の中で上から4番目に年をとっており、また、学問の世界から暫く遠ざかっていたので授業のスピードについていくのが大変でした。

でも、スタンフォードでは、「アメリカNo.1のビジネススクール(=スタンフォード)で学ぶ人たちは元来competitiveであり、むしろアメリカのビジネスはcooperationを学ぶべき」という思想があったので、グループスタディが奨励されていました。その時のグループの人がsupportiveで、事前の勉強会での私の発言が授業中に適切な時には、発言するように促してくれて、なんとか卒業しました。

 

アメリカの大学でも、independenceよりinterdependenceを大事にしようという風潮がありましたが、アメリカは人脈や支え合いを大事にする文化が醸成されていると感じますか?

そうですね。一概には言えませんが、多民族国家ですし、教会関係のコミュニティがあるところでは、奉仕の精神が基本的にはあると思います。

最近の日米間の変化で面白いのがコーポレート・ガバナンスです。アメリカは株主至上主義、日本は「買手、売手、世間」の「三方よし」という両極端にあるコーポレート・ガバナンスでしたが、ここ数年、相互に近寄っている印象を受けます。アメリカは株主以外のステークホルダーも大事にするように、日本はもっと株主を大事にするようになってきています。

 

日米学生会議で1番得たものは何でしょうか?

第一は夫をはじめとした人との出会いだと思います。その時に出会った人たちはその後の人生でも折に触れて接点があり、お世話になりました。

第二は自分の意見をきちんとまとめて、相手に「わかってもらえるように」発言する必要性を痛感したことです。

コーン・フェリーの取締役は株式公開してから8年、公開前のパートナーシップ時代から合計12年間務めましたが、株式公開後に社外の方からの質問に答える中で、日米学生会議で経験した「相手にわかってもらえるように説明する」必要性を痛感しました。

例えば、コンサルティング業界は投資銀行ほどではないものの、それなりに給料が高く、業績ベースなので、成果を出している人へのボーナスは大きいです。民間の製造業の方からすると法外なボーナスを支払っていると思うわけです。一度、「何故、こんな多額のボーナスを払うのか」と質問され、どういう風に説明すれば理解して頂けるか悩みました。その社外取締役の方は売り上げ重視の方だったので、「もし稼ぎ頭にそれだけのボーナスを出さないと、彼が競合他社に移ってしまう、そうすると3億円ぐらいの売り上げを失いますよ」と話しました。そうすると「彼を引き止めるために必要なのね、なるほどね」と理解して頂けました。

相手に対してどのように説明したら理解してもらえるか、JASC時代には十分にできなかったこの課題をずっと抱えながら仕事を通して学んできました。そして、「相手がわかってくれない」のは「自分の責任だ」ということを痛感しました。対話や交渉に於いて、お互いがしっかり理解できているか確認するのは大事だと思います。

JASCは日米の違いもある中で相手に自分の意見をどうやって理解してもらうかを模索する議論の場だったと思います。参加当時は、それができなくてもどかしさを痛感したので、それを克服することが努力の糧になりました。「いいじゃない言わなくたって、わかってよ」は単なる甘えだと痛感しました。私も好きな日本の「一を言って十を知る」や「あうんの呼吸」は残念ながらグローバルな環境では誤解の原です。数字は異文化間でも共通の理解を得られるものですが、事実は 1 つでも解釈は星の数ほどありますから、その事実を正確に説明し、自分の考えを理解してもらうことが大切です。現代では false news などが氾濫していますので、その中から自分が「事実」を見つけて「正確に」考えを伝えることができるかが、重要だと思います。

 

【~学生達へのアドバイス~】

これまでのキャリアを通じて、学生達へのアドバイスはありますか?

これは人財コンサルティングの仕事を通して感じたことですが、成功しない人の特徴は、「何でも他人のせいにする」傾向です。転職理由が「あそこは上司や部下、商品がよくなかった」と、全部他人のせいなのです。上手くいかなかったときの理由を自分にも問いかけて反省し、学び直すことがない人は成功しないと思います。

また、何かのチャレンジが提示されたときはやってみることが大事です。そしてそのときは「目一杯頑張る」ことが大事です。最近の若者は一生懸命やることがカッコ悪いというか、要領よくやることがすごく大事になっているような気がしますが、私は古い世代の人間なので、一生懸命やることには報いがあると思います。

私の場合はクライアントの満足を常に意識し、「クライアント企業が成功するにはどんな方にお入り頂くのがいいだろう」とずっと考えていました。良い方にお入り頂いて、ご本人も成功され、双方が満足されて、その結果次のお仕事を頂くという仕事でした。その結果、10年以上もお手伝いした企業も何件かあります。

今は全く違うようですが、ベインにいた頃は「24時間働けますか?」という時代で、ずっと4時間睡眠で頑張りました。昔のコンサルは知力より体力という働き方でしたが、その経験があったのでコーン・フェリーでも思いっきり働けたと思います。でも、これも強制ではなく、自分の意思でやりたいと思ってやることが前提ですし、現在は効率よく仕事のできるツールもありますので、「一生懸命効率よく」働くことが大事ですね。

最後にJASCの受験を考える学生達にメッセージをお願いします。

ぜひ皆さんにはJASCにどんどん参加してネットワークを広げて体験をして欲しいです。学生の頃にそういうネットワークを作るのは人生の糧になるので、とても重要です。

 

 

1966年 Clinton大統領来日時にヒラリー氏と日本の女性数人の昼食会において

編集後記

東 綺伽(第73回日米学生会議 日本側実行委員)東京外国語大学 国際社会学部
須藤 直太郎(第73回日米学生会議 日本側実行委員)東海大学 工学部 航空宇宙学科