VOICE

参加者の声

公開日:2021.02.10

邂逅こそ人生:時を超えて人と人を結ぶ日米学生会議

第16回日米学生会議参加者、日米学生会議同窓会副会長。国際ウェールズ環境総研 代表、環境カウンセラ―全国連合会 常務理事、環境大臣認定環境カウンセラー、G-jic国際アドバイザー。大学卒業後、NEC入社。北米、中近東、中国、インド亜大陸含むアジア、欧州地域への衛星地上局、マイクロ波通信機器、海底ケーブル、局用電子交換機、携帯電話システム、スパーコンピュタ、等 C&C関連プロジェクトの海外事業に携わる。2004年英国国立ウェールズ大学理学修士号(水の研究)取得。
竹本 秀人(たけもと ひでと)第16回日米学生会議参加者

【内弁慶な劣等生の挑戦】

竹本さんは、第16回会議にご参加されたと伺っておりますが、当時はどのような経緯で参加されることになったのですか?

私は愛媛県新居浜で生まれ育ち、大学時代に上京し学生寮で暮らし始めました。上京したての頃は、英語どころではなく、日本語も方言・訛りがひどく先輩方に注意されてばかりでした。そんな中で、大学の英語研究会の先輩から日米学生会議の受験を勧められました。日米学生会議については、新聞で見たことはありましたが、田舎出身の私にとっては、はるか遠い話だと思っていたので、ダメ元で試験を受けてみました。結果、たまたま合格することができ、内弁慶な劣等生の挑戦が始まりました。

 

今から60年近く前に開催された第16回会議はどのようなものでしたか?

私が参加した第16回日米学生会議は、1954年第15回日米学生会議より10年間の中断を経て1964年の開催となりました。当時の会議は、現在のように日米での3週間の共同生活ではなく、5日間の本会議と日本側だけの約2週間の研修旅行という形式でした。実行委員も存在はしていましたが、実質、国際教育振興会の理事長だった板橋並治さんが引率する形で29の大学から総勢77名の日本人学生で米国に渡りました。

現在の会議とは異なり、分科会の内容も複雑ではなく、経済、政治、社会、教育、文化の5つの分科会がありました。私は、社会分科会に所属し、会議前年1963年ケネディー大統領の暗殺やベトナム戦争が背景にある中で、人種問題や戦争について議論しました。言語の壁だけでなく、米国側の学生は高いディベイト力があり、常に相手を言い負かす姿勢があり、苦戦することもありました。しかし、具体的な事例に基づいた意見をするとしっかりと聞く耳を持ってくれる学生ばかりでした。このため、私は会議中でもしっかりと情報を収集し、深堀をして相手に攻め込むことを意識しました。このような努力もあり、それぞれの記憶に生々しく残る原爆についても、たどたどしい英語で「なぜ、原爆を落としたのか?人としてどう思うのか?」と率直に聞くことができました。

 

第16回会議の中で特に印象に残っていることはありますか?

今になって思うことですが、会議の初日のホームステイ先だったカルフォルニア大学の教授宅での夕食会は貴重な経験でした。その夕食会には、先生のお嬢さんの友人リーチャード・ニクソン副大統領の秘書だった人も参加し、当時の政治について白熱した議論が行われました。私の英語力の不足により、内容は3分の1程度しかわからなかったのですが、後ほど大統領になった、歴史に名を残すニクソン大統領に関するホットな話を聞けたことは財産と思います。

それだけでなく、米国の文化も感じることができました。シアトルで、第1回会議の参加者で、且つ、JASCソングの関係者でもある、ホストファミリーの上院議員の方からベトナム戦争の話を聞いたのですが、彼はかなりのお年だったにもかかわらず、ガールフレンドを連れてこられ、驚きました。こんな経験の中で、米国ってこんなところなのかと新鮮に思いました。

 

【板橋並治さんと日米学生会議再開】

1934年、第二次世界大戦以前、日米関係の悪化を危惧した4人の学生が「世界の平和は太平洋にあり、太平洋の平和は日米間の平和友好関係にある。その一翼を学生も担うべきである」との理念の下、始まった日米学生会議ですが、戦争によって中断されてしまいました。そんな中で、会議再開に向けて、板橋並治さんが尽力したと伺っております。日米学生会議再開は、どのような経緯だったのですか?

日米学生会議は、板橋並治さんがいなければ、今は存在していないと思います。1934年、当時明治大学の学生だった板橋さんは他校の3人の学生と4人で渡米され、会議開催を訴えました。大きな反響を得て、彼らのうち2人は帰国して日本での準備活動にあたり、板橋さんともう一人は米国の各大学を行脚して7月に総勢99名の参加者(22名は大学教授とその夫人たち)を伴って船で日本に戻り、第一回日米学生会議を開催しました。板橋さんはその後、外務省、情報局、NHK国際局勤務の後、日米学生会議の主催団体となる一般財団法人国際教育振興会(IEC)の事実上の創始者となりました。

1954年第15回会議以来、日米学生会議は10年間途絶えていました。しかし東京オリンピックが開催された1964年は、日米学生会議30周年にあたり、国際化の機運の高まりと共に会議再開を求める声も高まっていました。板橋さんは当時経済企画庁長官だったOBの宮沢喜一(後総理大臣)や米国ラスク国防長官(夫人がJASCer)等に協力を仰ぎ、国際教育振興会が主催者となり第16回日米学生会議を再開されました。爾来、現在まで絶えず日米学生会議は続いています。

 

【日米学生会議後の活躍:0からの出発】

日米学生会議参加後、OBのみなさまは多種多様な方面の最前線で活躍されています。特に竹本さんは、海外のインフラ整備に携わってきたと伺っています。複雑な社会情勢の中での開発はどのようなものでしたか?

結果から言うと、様々な事件に巻き込まれましたが、どれも正しい答えはありませんでした。そこで、「自分には何ができるのか」常に追求する必要があり、周りの協力の大切さを実感しました。あらゆる危機の中で守るべきは自分だけではなく、家族や工事会社の人、自分の下で働く現地の人です。その人たちをどうやって守るのか。それを検討し続ける日々でした。例えば、エジプトで新たな拠点設立プロジェクトを行った際に、アンワル・アッ=サーダート大統領の暗殺事件(サダト暗殺事件)がありました。当時、現場のカイロにはいなかったものの、近郊のアスワン・ハイ・ダムに視察に行っていました。事件の情報が入った時に、本社に飛行機を手配してもらえれば簡単でしたが、飛行機が取れないどころではなく、電信事情も悪く、日本へ電話することも難しい状況でした。このような事態でどうするのか、陸路脱出ルートの吟味など含め現地の人の協力を得ながら、対処することができました。このような判断も現地スタッフと協力しながら、解決策を導き出し、冷静な判断を下すことができました。このように仕事はいつも、ゼロからの出発でした。しかし、この出発も一人ではなく、いつもチームと共に歩んで成し遂げるものでした。

 

まだ日本の国際化/グローバリゼーションが進む前に海外でのご活躍を得て、現在もあらゆる活動に携わっていると伺っております。現在の活躍についてもお聞かせください。

主に環境関係とグローバル人材育成に関する活動をNPO等でも行っています。母の介護の為、60歳で仕事を辞め、大阪の実家で介護を行っていた際、やり残したことはないか考え、学生時代の夢だった海外大学院での進学を思い出しました。そして、思い切って、水/環境(ISO)環境マネジメントに関する先進国である、イギリスの大学院の環境マネジメント修士コースで水の研究を行いました。今は、NPOにも属し環境に関係する者として、COP等様々な国際会議にも参加しています。 

また、海外での事業立ち上げの経験を活かし、グローバル人材育成センター(G-jic)というNPOのような会社で国際アドバイザーをしています。この会社はもともと、厚生労働省 直轄のOverseas Vocational Training Association (OVTA)という団体から派生し、中小企業向けの海外支援を行っています。海外からの往来が盛んになった今、大企業だけでなく中小企業の国際化が進んでいます。NPOのようなこの会社で、海外拠点設立、海外へ飛び立つ日本人や日本で働く外国人のアドバイスをしています。他にも、国際的な活動と環境研究を結んだ、フィリピンでのサプライチェーンマネジメントに関する講演会なども行っています。

 

【近年の日米学生会議を見て】

竹本さんは、現在も日米学生会議の同窓会副会長として活動され、各回の実行委員ともに竹本さんと密に連携し、たくさんのことを学ばせていただいております 。近年の日米学生会議を見てどのようなものだと思いますか?

日米学生会議は、人と人を結んでくれる場所です。これは現役を終えてからもそうです。日米学生会議の現役を卒業してから、38年経った2002年、京都で初めて開催された水の国際会議で第17回日米学生会議の参加者の元NHK副会長の今井義典(前日米学生会議同窓会会長)さんに再会しました。私は、環境の研究者として会議に参加し、今井さんは会議主催者の幹部の一人として参加されていました。爾来ご交誼を頂いております。

最近は、コロナ前の話ではありますが、日米学生会議の広報活動を行うために実行委員の学生諸君と一緒に京都の大学を巡ったりもするなど、時を超えて素敵な出会いをくれました。また、第16回の会議でお世話になったホームステイ先の方や、同期のアメリカ人学生は、よく日本に遊びに来てくれていました。数十年に渡って交流が続いたこの縁も「現場百景」と言うように日米学生会議や水の国際会議などに参加したからこそあったものです。

今振り返ると、日米学生会議に参加していなければ、水の国際会議にも参加せず、今井さんにも出会わず、米国のホストファミリーとも関わることができませんでした。すべての出来事が奇跡としてつながっているのかもしれないと思っています。

 

【応募を考えている皆さまへ】

最後に、応募を考えている学生および選考の小論文を執筆中の皆さまにメッセージをいただきたいです。

四国で生まれ、英語どころか標準語もしっかりと話せなかった私は、日米学生会議に参加したことで、自分の不足点に気づくことができました。本会議は5日間と言う短い時間ではありましたが、米国の大自然に囲まれ、学生ながらも自分の未来の見通しをつけることができました。また、多様性に触れ、深く検討したことは今でも私の宝になっています。

日米学生会議の意義は、ただ座って議論をするだけでなく、社会課題を自分の問題として認識し、動くことにあります。加えて、自分一人でこの経験ができているわけではなく、様々な人に助けられていると言うことを決して忘れてはいけません。日米学生会議は72名の学生と5,000人を超えるOBの人生をつなぐ架け橋です。本気で問題にぶつかった時、それが社会に変革をもたらそうがもたらせまいが、応援団はついてきます。新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、日米学生会議の形態がどのように変化していくのか、定かではないが、学生の力で会議を実施していると言う伝統は素晴らしいものです。若い人の感性は素晴らしく、いつも全力です。私たちもそんなみなさんからパッションや知見をもらえることを楽しみにしています。

*第16回日米学生会議 米国側 実行委員長 ハス氏と

編集後記

野澤玲奈(第72回日米学生会議実行委員)
早稲田大学 文化構想学部 国際日本文化論プログラム
第72回日米学生会議ホームページ担当