川口 耕一朗
VOICE

参加者の声

組織の歴史・未来を背負うやりがい
-JASC58参加者、59実行委員長(東京、秋田、広島、京都開催)。2009年、東京大学法学部卒業後、外務省入省。日米関係・日米安全保障、朝鮮半島情勢、海洋安全保障、採用、通訳業務等に携わる。イェール大学大学院国際関係学部留学中に、米上院軍事委員長・国土安全保障委員長の事務所でインターン。オバマ大統領(当時)の広島訪問・安倍総理(当時)の真珠湾訪問の際には現地での準備業務に従事。また、在米国大使館勤務時には日米間の広報文化外交を担当し、JASC66・67や米側事務局の運営を支援。-

川口 耕一朗(かわぐち・こういちろう)第58回参加、第59回実行委員長

【日米学生会議との出会いと参加理由】

本日はどうぞよろしくお願いいたします。まず、簡単な自己紹介とJASCとの出会いについてお願いいたします。

私は第58回参加者、第59回実行委員長として日米学生会議に参加しました。現在、外務省で主に日米安全保障に関わる業務に携わっています。JASCに出会う前、高校の時に3年間、父の仕事の関係でアメリカのワシントンD.C.に住んでいました。大学で日本に帰国し、ゼミの先輩から日米学生会議について話を聞き、自分が成長できる場であると期待して、参加したいと思ったのが応募のきっかけでした。

 

高校時代はアメリカで過ごされていたのですね。その頃の経験はJASCに応募されたこととどう関係しているのでしょうか。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロで、世界貿易センターやペンタゴンが攻撃されたまさにその時に、アメリカにいました。その後も、再びテロが起きるのではないか、といった漠然とした不安感が私を含め周囲の学生も強く感じていたことをよく記憶しています。その後、アフガニスタン戦争、イラク戦争と続き、ワシントンD.C.に住んでいると世界情勢の渦の中心にいたような感覚を覚えました。当時、英語は満足に話せませんでしたが、星条旗を掲げ国歌を斉唱するといったアメリカの同級生の間では当たり前とされている愛国心のあり方、アメリカ人のアイデンティティ、日本とのギャップについて、なんとか英語で会話しながら自身の考えを巡らせていました。そこから少しずつ英語を話せるようになり、アメリカを理解すると同時に、日本についても発信できるようになりました。このように高校時代に、様々な友人と本音で対話する面白さや奥深さを知り、大学で日本に帰国してからもアメリカ人と交流する機会は多かったですが、物事の本質奥深くについて、アメリカの学生と本音で対話できる機会はあまりありませんでした。そこで日米学生会議について知り、応募しました。

 

高校時代からアメリカ人の学生との議論を積み重ねていたとのことですが、高校時代の対話とJASCの対話の違いはどんなところにありますか?

当時は、現地校で多数のアメリカ人の中の1人の日本人だったので、当然アメリカ人中心の会話の流れであって、自分からスピークアップしない限り埋没してしまいました。JASCは、日本側代表/アメリカ側代表と設定された席を与えられるため、互いに相手側とコミュニケーションをしたいという気持ちがある学生同士でやりやすさはありました。同時にあくまで日本側代表として参加している以上、自分の発言に責任が伴い、自分の発言が、日本の学生の考えであると相手側に伝わるということを常に意識していたと思います。

アメリカで学生時代を過ごした川口様のような学生にとってもJASCの場は特別な意味があるのですね。

 

【第58回日米学生会議から得たもの】

高校時代をアメリカで過ごし、大学進学で日本に帰国されたとのことですが、第58回参加者としてはどのような学びがありましたか?また、第58回会議において特に印象に残っている出来事、経験は何ですか?

私が参加した第58回はアメリカ開催で、訪問サイトの中には9.11の舞台となったニューヨークやワシントンD.C.が含まれていました。自分の高校時代のリフレクションといった気持ちでグラウンドゼロの現場は、特に感慨深い気持ちでした。また、ワシントンD.C.では第二次世界大戦・朝鮮戦争メモリアル、ホロコーストのミュジアムなどを訪れ、過去の戦争をいかに記憶するかという点をよく考え、議論しました。高校時代感じた様々な想いをアメリカ側参加者にぶつける機会が多くありました。その中で、アメリカ人学生と原爆投下の是非についても話すようになり、本会議終盤に差し掛かるに連れて、本音で互いに対話できるようになり、我々日本人とは異なる姿勢、視点を示すアメリカ側学生もいたことをよく覚えています。日米両国は友好国・同盟国として戦後60年〜70年の中で、違いを尊重しつつも、価値を共有し、お互い同じ目標に向かって、様々な努力を重ねて二国間関係を構築してきました。国と国の関係であっても、JASCの個人個人の議論のような、人と人の関係に下支えされているところは大きくあります。歴史ある会議の中で、立場や価値観が互いに異なる中であっても、本音で行う議論は大学のゼミの議論とは違う、楽しさと緊張感がありました。

 

やはり現地に降り立って肌で感じることが議論を促進する部分も大いにあるのですね。高校時代をアメリカで過ごした川口様だからこそ言えることというのはありましたか?

JASC中にアメリカ側の発言を聞いて、自分の意見をぶつけることができるようになったのは、高校時代の経験があったからだと思います。ただ、今振り返ると高校・大学時代は、考えついたことをその場で一生懸命、英語でぶつけることだけで精一杯でした。

 

特にヒートアップした議論はありましたか?

先程お話ししたとおり、戦争とは何か、なぜ戦争は起こってしまうのかという点で議論を交わし、更には、広島や長崎についても議論を行ったことが印象に残っています。議論が進むにつれて、日本側から、アメリカは謙虚じゃない、アメリカは他国の話をあまり耳を傾けない、アメリカが少しでもグッドリスナーであれば世界の受け止めは変わる、と言ったような声も出てきて、白熱しました。

アメリカ側は、全体的にリベラルな学生が多く、当時の政権・政策については日本側に同調して批判的になることはあっても、アメリカは「国」として、アメリカ人は「国民性」としてはこうだと言われると、一致団結して反論してくることが多いように感じました。翻って見れば、我々日本側が、日本は「国」として、日本人は「国民性」としてはこうだよねと何か言われたところで、アメリカ側のように一致団結してその批判に立ち向かうということは考えにくかったと思います。

 

学生ならではの本音でぶつかり合う対話というものが少し分かったような気がします。9.11当時や第58回JASC当時の激動のアメリカと、今のアメリカを比較すると、アメリカ人の考え方も違ってきていると感じますか?

アメリカ側学生の中でも、それぞれの個性や違いは当然あるとは思います。ただ、2006年という年は、9.11で愛国心が高まり、そしてアフガニスタン戦争、イラク戦争を経て、アメリカ自身の世界との関わりのあり方について、振り子が動く真っ只中で、多くのアメリカ側学生の中で、自国の進むべき方向性について気持ちが揺れ動いていたのではないかと思います。そうした潮流の中で、学生レベルの議論であっても、より白熱しやすい環境にあったのではないかと感じました。

 

非常に興味深いお話をありがとうございます。日米学生会議でできる議論はその回ごとに特別なのですね。

 

【第59回日米学生会議実行委員長としての経験】

第58回日米学生会議の参加者としての経験から第59回で実行委員長に就任されましたが、実行委員の経験と参加者の経験はどのように異なりましたか。また、実行委員長に立候補された理由、きっかけは何でしたか。

正直なところ、JASC応募時は、自分自身が成長したいと言う思いが強く、JASCという組織自体に愛着はあまりありませんでした。ただ、本会議を通じて、東京で他の様々な国際交流活動をしているのとはまた違う、日米関係の大きな歯車の中で、学生の立場であっても、最前線で活躍できるという感覚があったのだと思います。そのため、第58回本会議中に、日本開催の第59回において日本側の「顔」になって日本側の発信の一翼を担いたい、そして実行委員長をやりたいと日に日に思いを強めました。

 

本会議中に実行委員をやりたいという気持ちが湧いてきたのはなぜですか?

単純に楽しかったという気持ちが一番かもしれません。それに加えて、一参加者の立場であっても、普段感じられないような大きなものを、JASCを通じて背負って、発信できているという期待もありました。そして、実行委員長を務めながら、重責を担い多くの経験を積むことで、人として成長したいという気持ちもありました。

 

純粋な楽しさと同時にやはり人として成長したいという思いが根底にあったのですね。実行委員長としての1年間を振り返ってみていかがですか?

参加者、実行委員長としての気持ちは大きく異なるものでした。参加者の時は自身の楽しさ・成長が最優先で、全て自分で完結するような感覚がありました。実行委員長としては、それがJASCと言う組織に変わり、理念的に70余年の歴史を背負うという意識と同時に、会議全体を運営する責任感がありました。実行委員長として、やりがいと責任感の中で、壁にぶつかりながらも走り続けたという感覚があり、充実感がありました。

しかし、実は同時に、自分たちのせいで第59回の本会議はできないのではないか、第59回を契機に60回台JASCの縮小・衰退につながらないか、といった不安も付きまといました。第59回で苦労したことは、例年何かしらある周年行事が皆無だったために、「狭間の世代」、「つなぎの世代」と言われたこともありました。ただ、逆にそんな「つなぎの世代」だからこそ、我々実行委員間の創意工夫で、自由に企画立案ができました。試行錯誤の日々ではありましたが、60回代に勢いがつくような最高の「つなぎ」をするんだという前向き気持ちで、日々の運営に取り組もうと言い聞かせていました。

 

そうした想いを持つ中で、第59回会議の全体コンセプトとして意識したことはありましたか?

実際に関係団体や企業、地元自治体などにご協力をお願いさせていただく中で、厳しい反応を受けることが多く、特に資金調達の面で非常に苦労しました。中でも、第59回で初めて企画した秋田開催に際し、地元の皆様からの多大なご協力・ご支援をいただけたのですが、地元の皆様に我々として目に見える形で還元させていただけることと、JASC参加者72名の満足度を高めることを両立することに難しさを感じました。また、アメリカ側ではちょうどKASC(注: 韓米学生会議, Korea-America Student Conference)が発足する動きもあり、日米双方で、JASC参加者のみならず、JASCの社会的な意義について問われることが多かった年だと思います。

そして、実行委員間で試行錯誤した結果、第59回ではより社会に開かれた形で行うべく、地方自治体や財団、企業等との共催イベント、シンポジウムを多く開催し、その中身において学生ならではの議論と提言を行うという考えに至りました。周囲からは様々な反応がありましたが、やはりJASCの歴史に頼るだけでなく、JASCの歴史を背負った上で、第59回参加者だけでなく、JASCに関わった全ての皆様にも何らかの形で、我々が還元させていただけるように努力・工夫すべきではないかという考えがありました。

例えば、第59回は本会議中に秋田、広島で地元の中高生の方々と議論や、シンポジウムでの発表などをする機会を持ちましたが、その中からその後JASCに参加してくれた方もいました。開催地の地元の皆様からも、JASCという機会を通じて地元の子供たちが通常であれば得られないような経験をでき、刺激を受けた、成長できたたという声をいただき、JASCとして僅かではあっても、開催地の地元の皆様のお役に立てたという想いがありました。

振り返ると、実行委員時代は正解のない問いと日々格闘しながら、より良いJASCを作り上げるべく、もがいていたのだと思います。第59回1ヶ月の参加者72名の満足度を高めることに主眼を置くのか、それとも第60回代以降の会議への勢いをつけるべく基盤作りを優先するのか、常に自問自答を繰り返していた気がします。

 

学生時代に自分の理想に向かってがむしゃらに頑張るという経験は現在どのように生きていますか。

お恥ずかしい限りですが、今振り返ると、やりがいは感じつつも、自分のキャパシティ以上のことをしていて、相当一杯一杯の状態だったように思います。自分自身は実行委員長として刺激的な機会に数多く恵まれましたが、やはり実行委員を含めた72人の参加者全員のことを考えた際に、本会議のプログラムの企画立案においても改善点は多くあったと反省しています。自分がいくらJASCの将来を見据え長期的なビジョンとして正解だと思っていたとしても、単に引っ張っていくだけでは人は付いてこず、仲間がどう考えているかを常に考え、耳を傾け、一緒に前に進んでいく必要があることを痛感しました。JASCでは成功体験もあれば、それ以上の数多くの失敗体験もあり、現在社会人として働く上でも、原体験となるような、とても貴重な経験でした。

まさに日米学生会議のコンセプトの一つである、”life changing experience”という側面を表わしているご経験だと思います。

 

【日米学生会議での経験と現在のキャリアパス】

大学卒業後、外務省という道を選ぶにあたって、日米学生会議での経験はどのように影響を与えましたか。また、入省後のキャリアパス形成において日米学生会議での経験や人脈はどのように活きていますか。

JASCが終わった後のキャリアを考えるにあたり、興味関心は沢山あったのですが、一つ絞り込むとすれば、高校以降の自身の人生の点と点を線で結んだ時に、それらの全てに通底する「日米関係」という分野の根幹を担う、外務省という選択肢がベストなのではないかと考えるに至りました。実際に現在も働く中で、学生時代の経験が原動力になっている部分は多く、日米関係に関わる業務に直接的に関わった際は、JASCのことを思い出しながら、普段出せないようなアイデアや力を発揮できたこともありました。

就職活動において、新卒時の就職先を一つに絞り込む際、学生時代の原体験は一つ大きな指標になるのではないかと思います。もちろん実際に働く中では様々な制約があるのは事実ですが、常に自身の背中を押してくれ、頑張れる源となるのは、学生時代の経験なのではないかと感じています。

また、実行委員長として一組織を率いるという大きな責任を担う経験ができたことも大きいです。学生の時は、多くの先輩方や関係者の皆様からもご理解・ご協力いただき、学生だからこその立場・視点で、守りに入ることなく、挑戦できるところがあると思います。

 

学生だからこそ存分に力を発揮できる領域がJASCにはあるということですね。第59回以降もJASCとの繋がりは継続してあるのでしょうか。

幸い外務省に入省した後も、JASCに関わる機会は何度かありました。中でも、ワシントンD.C.の大使館に勤務していた時、第66回において、現地でのJASC担当としてサポートさせていただく機会があり、有り難いことに、参加者の皆さんに大使館の施設でファイナルフォーラムを実施いただいたり、レセプションの運営、JASC参加者72人の前でお話させていただく機会もいただきました。

実は、第59回が終わってからは、JASCから離れており、横のつながりはあったもののアラムナイとして一歩引いた方がいいと考えていました。そんな中、第66回の時に後輩の皆さんたちと接した時、非常に元気・刺激をもらい、現役世代のサポート役として陰ながらお役に立ちたいという思いを抱きました。

第59回の時にも感じたことですが、やはりJASCのような歴史・規模の学生団体になると、学生自身が頑張れるフィールドに加え、社会の大人の力を借りねばどうにもならないフィールドは存在するのではないかと思います。一人のアラムナイとしてだけでなく、後援団体の担当職員としても直接的に関われることで、JASCに恩返ししつつ、日米間の人的交流の促進につなげていきたいという想いがありました。また、ワシントンD.C.の中でも、お付き合いのあった日米双方の関係者間で、自身の体験に基づいて、JASCを含めた学生交流の意義を広く伝えていきたいと考えていました。このように、多くのJASCアラムナイの場合、自分の同期との横の繋がりや、現役世代への協力を通じて、JASC全体としての繋がりは継承されていくのだと思います。

 

最後に、応募を考えている学生、そして未来の参加者にメッセージをお願いいたします。

私にとってJASCは、歴史のある大きな組織の中で責任を背負い、一つ大きな目標に向かって、仲間と共に全力で取り組むための場所でした。例えば就職・採用活動の際、多くの採用担当が大切にしている視点として、学生の皆様が学生時代に達成した「成果」そのものだけでなく、学生時代に何を突き詰めて考え、仮に失敗したとしてもそこに向かっていかに努力・挑戦したかという「過程」の部分であるのではないかと思います。そして、入社後のチームの一員としての適正を判断するために、学生時代に周りのメンバーの思いを汲みつつ、いかにチーム全体の大きな目標へ向かってきたという経験にも価値を置いているのではないでしょうか。

社会においては、新しいものをゼロから作り出すだけでなく、今ある課題や制約を背負って、いかに現実的な視点から、理想へ近づけるか試行錯誤する場面が多々あると思います。JASCは戦前からの長い歴史があり、それが故に社会との繋がりが強く、JASCを通じて沢山の挑戦をすることができたのは、社会人になってからも役立つことが非常に多いと感じています。学生の皆様の挑戦を心から応援しております!

 

編集後記

反後元太(第73回日米学生会議実行委員)
東京大学 教養学部教養学科
第73回日米学生会議ホームページ担当