VOICE

参加者の声

公開日:2022.02.11

参加者の数だけある物語:日米学生会議から始まる社会貢献

第17回日米学生会議参加者、前日米学生会議同窓会会長。1944年(昭和19年)生まれ。神奈川県鎌倉市出身。慶應義塾大学経済学部卒業後1968年(昭和43年)に記者としてNHKに入り、高松放送局、報道局外信部(現国際部)を経て、78年(昭和53年)から3年間ワシントン特派員。次いで89年(平成1年)から1年間ニューヨーク特派員、さらに95(平成7年)年から3年間ヨーロッパ総局長。またこの間、86年(昭和61年)から2年間朝の「ニュースワイド」のキャスター、続いて93年(平成5年)から2年間「おはよう日本」のキャスターを担当。その後2000年(平成12年)から国際放送局長として日本の海外発信と国際協力業務などに当たった後、2003年(平成15年)から解説委員長。2008年(平成20年)NHK副会長に就任し、アジア太平洋地域の放送機関が加盟するABU(アジア太平洋放送連合)会長を務めた。NHK副会長を2011年に退任し、立命館大学客員教授や朝日新聞「報道と人権委員会」委員などを務めた。
今井 義典(いまい よしのり)第17回日米学生会議参加者

外国との接点を求めて日米学生会議へ

今井さんは、1965年に開催された第17回日米学生会議にご参加されましたが、当時の日本はどのような状況でしたか。また、どのような経緯で会議に参加されましたか。

私の大学時代は、東京オリンピックや日米安保条約の改定、日韓条約の締結、ベトナム戦争などもあって、世の中は騒然としていましたが、日本経済の急成長で、国際社会へ進出する人財が求められるようになり、また学生自身も世界に目を向け始めた時代でした。今は大学進学率が60%に達していますが、当時はまだ同世代の15%にも届きませんでしたし、日本からの海外渡航者はコロナ禍直前の2019年には2,000万人にものぼりましたが、1965年は今の200分の1ほどの12~13万人にすぎませんでした。

このような時代に大学に入って、私が選んだサークル活動の一つがESSでした。また入学した夏の東京オリンピック開催時には、地元鎌倉の観光案内所でボランティア通訳をするなど、外国人と接する機会を積極的に作るように努めていました。そんな中で、2年生の夏、前年に復活したばかりの日米学生会議に参加してみないかとESSの仲間から誘われて、迷わず参加を決めました。

 

実際に参加された第17回日米学生会議はどのようなものでしたか。

第17回日米学生会議は日本開催の番で、会場はICUのキャンパス、日本側参加者約100名と米国側参加者約30名が1週間寝食を共にして、連日連夜熱い議論を戦わせ、楽しい集まりを開いて交流を図りました。印象に残っているのは、米国の学生の切り替えが速いことでした。夜遅くまでスキットをしたりビールの飲み比べをしたりして、底抜けに明るく楽しい時間を過ごしても、翌朝討論の時間がくると表情は引き締まり、私たち日本の参加者に真剣に意見をぶつけてきました。アメリカ側の参加者のほとんどが西海岸の出身だったせいか、太平洋を挟んだ日本のあらゆることに関心を持っていたし、何よりも底抜けの明るさに惹かれました。肝心の討論ではアメリカが次第にベトナム戦争にのめり込んでいった時期でしたから討論の中心はベトナム戦争でした。アメリカでは未だ反戦運動が高まっていませんでしたが、私たち日本側はベトナム戦争は間違った戦争でアメリカは直ちに手を引くべきだと主張して、米側の学生と激しい論戦をしたことを今でも鮮明に覚えています。日米学生会議に参加して、世界には国の成り立ちも社会の在り方も、文化や宗教も全く違う人たちがいて、しかもその人たちと一緒に生きていかなければならないことを初めて身をもって知ったことは、まさにlife changing experienceでした。

 

*第17回日米学生会議合格通知(1965年)

 

 

日米学生会議からジャーナリストへの道

第17回日米学生会議参加後、翌年に渡米したと伺っておりますが、どのような経験でしたか。

日米学生会議経験者の中には今も昔もその後留学する学生が少なくないですが、私も次の年にアメリカ政府の交流プログラムで短期留学しました。アジア太平洋地域10か国からの10人の学生でグループを作りホームスティやキャンパススティをしながら3か月間で全米の13の都市を回りました。このうちミネアポリスで4週間のホームスティ、またノースカロライナでは白人大学に、テキサスでは黒人大学にキャンパススティしました。アメリカの様々な側面に触れ、資本主義の権化としての豊かさの裏側にある人種差別や貧富の差、ときには日本との戦争のしこりなども目の当たりにして、世界は実に多様で矛盾だらけであることを体感しました。また行く先々で多様な人々と交流する中で、アメリカ人は意外にプロビンシャルで、アメリカ以外の世界についてはあまりよく知らないことに気づきました。その一方で行く先々の都市でテレビや新聞のインタビューを受けたり、歓迎のパーティで色々な会話を交わしたりする中で思い知らされたのは、自分が日本について恥ずかしいくらい何も知らないことでした。人々が国内であれ海外であれ、知らないこと、自分で見ることができないことを、代わりに体験して伝えるジャーナリストの仕事に就こうと考えるきっかけになりました。

 

NHKにジャーナリスト入局されてから様々な歴史的な出来事を取材されてきたと伺っておりますが、ジャーナリストという仕事の醍醐味を教えてください。

私は、NHKでは先ず四国の高松で「記者修業」を5年間したあと国際部に転勤になり、入局して10年目にワシントンの特派員になりました。そこでの3年間ではじめて、特派員の仕事は予期せぬこと、全く考えたこともなく知識も持ち合わせていないことの連続だということでした。例えば1979年、史上初めての原発事故が起きたペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所の取材をしたときのことです。事故発生の翌朝、事情が全く分からないまま何の用意もなく飛び出して、ワシントンから車で2、3時間のスリーマイル島に駆け付けました。発電所に隣接する町は外出禁止令と避難命令でホテルの従業員すらいなくなって、出動した軍隊と世界中から駆け付けた記者団だけのゴーストタウンになりました。臨時のプレスセンターになった近くの高校のバスケットアリーナをベースに、10日間も取材を続ける羽目になったのです。原子力発電の仕組みなど基本的な知識を持ち合わせていないまま、難解なブリーフィングを聞いては原稿やリポートを送る毎日でした。今だったら考えられないことですが、現場の記者は自分一人だけ、通信手段は電話一本しかなく、身の安全を守る防護服もなければ、万一の時の脱出手段の用意もありませんでした。ワシントンでは日米関係を軸に政治・外交・経済を取材するのが毎日の仕事でしたが、その一方でこのように突発的な大事件、例えばレーガン大統領暗殺未遂事件やイランのイスラム革命、飛行機の墜落事故などにも出くわし、世紀の大イベントだったスペースシャトル第一号の打ち上げをケープケネディの現場から中継したりしました。この仕事の醍醐味は、とんでもないことに出くわし、それにひるまず立ち向かって報道していくことですが、振り返って見ればすべては日米学生会議が出発点だったことに思い当たります。

 

ジャーナリストとしてのキャリアの中で、日米学生会議の経験はどのように生きていましたか。

若い頃先輩記者から「特派員は水道の水をそのまま飲めるところでしか取材経験のないジャーナリストと、飲み水の一つですら手に入れにくいところで仕事をしてきたジャーナリストの二つに分けられる」と言われたことがありましたが、戦争や大災害など人間が極限状態に置かれる本当の修羅場を経験できなかったことは心残りです。しかし、どんな現場でもジャーナリストとして大切なのは、起きていることの何が問題なのか、そして何故伝えなければいけないのかを自分で導き出し、大事な情報を漏らすことなく盛り込みながら分かり易く伝えることです。予習も心の準備もないままでも跳び込んで、臨機応変に対応していくという気構えは日米学生会議の賜物です。そしてあの学生会議の1週間が、多重構造になっている世の中は上っ面を撫でただけでは何も見えてこないことに気づくきっかけを作ってくれました。この目で確かめ、触り、意見を闘わせて初めて、自分が生きている世の中社会が見えてきます。この基礎訓練の最初の場が日米学生会議でした。


*ワシントン特派員時代、ホワイトハウス前でリポート(1981年)

 

【応募を考えている皆さまへ】

今、国際社会の構造はますます多層的になると同時にバラバラに分断されていて、私たちは混然一体となった世の中と付き合っていかなければなりません。それには宇宙から地球を眺めるような冷静な視座と、森を外から見ているだけでなくその中に分け入って一本一本の木も丹念に触れる積極性をもって、世界や人々を見るように心がけることが大切です。日米学生会議は異なる環境、歴史の中で育った人たちが付き合っていくうえで不可欠な相互理解を育む場なのです。日米学生会議のOBとして若い後輩諸君と話をしていると、いくら熱い議論を重ねても中々参加者同士の意見がまとまらないことに不安や力不足を感じて落ち込んでしまうという話をよく聞きます。でもこれは世の中では当たり前のことです。意見が異なることに気づくこと、それでも互いを尊重しながら、粘り強く対話を続けることこそが大事なのです。これによって自分の世界観や社会観、人生観が培われていくし、そのうえに寝食を共にすることによって国境や人種の垣根を越えた友情が積み重なっていきます。

日米学生会議は学生が主体になって企画運営しています。実行委員になって様々な困難を乗り越え、仲間とともに会議成功の喜びを共有する経験も得難いものがあります。1年目の経験を活かしてで2年目は実行委員として組織を立ち上げ、会議開催に漕ぎ着け、会議本番で72人の日米の参加者をまとめ上げ3週間を乗り切ったときの達成感は格別です。こうした経験は一人一人の中にDNAとして植え込まれ、将来花を咲かせ実を結ぶのです。

楽しみしながら予測できない未来に挑戦しましょう。皆さん一人一人が日米学生会議を起点にして自分の物語を1ページ1ページ書いていって下さい。人の数だけ物語があります。あなたの参加を期待しています。

*2019年11月2日日米学生会議創設85周年記念祝賀会にて

左:高円宮妃久子殿下

 

*2019年11月2日日米学生会議創設85周年記念式典にて

左:日米学生会議同窓会元会長 橋本徹氏
中央:日米学生会議同窓会前会長 今井義典氏
右:日米学生会議同窓会現会長 岡本実氏

*日米学生会議同窓会現副会長竹本秀人氏と今井氏で主催するOBOG会

編集後記

野澤玲奈(第72回日米学生会議実行委員)
早稲田大学 文化構想学部 国際日本文化論プログラム
第72回日米学生会議ホームページ担当