VOICE

参加者の声

座右の銘は「至誠惻怛」
-1934年生まれ。57年東京大学法学部卒業後、富士銀行(現・みずほ銀行)に入行。 富士銀行頭取、ドイツ証券会長、日本政策投資銀行社長のほか、国際基督教大学理事長も歴任、日米学生会議同窓会元会長。現みずほフィナンシャルグループ 名誉顧問。国際教育振興会賛助会前会長、現顧問。-

橋本徹(はしもと・とおる)第14回

【日米学生会議との出会いと参加理由】

 

橋本さんは、第14回会議にご参加されたと伺っておりますが、当時はどのような経緯で参加されることになったのですか?

 

1953年の4月に岡山の田舎から上京して東京大学に入学しました。東京に来たからには英語をブラッシュアップしたいと思い東京大学のESS部(English Speaking Society)に入りました。そしたら、部長から日米学生会議に参加しないかと声をかけられたのですが、参加するには試験に合格する必要があると。日米学生会議の創設メンバーの一人である板橋並治さんが試験面接官でしたが、何とか合格して、大学一年の時に第14回日米学生会議に参加することになりました。ちなみに私は1934年生まれで日米学生会議と年は同じです。

 

【第14回日米学生会議について】

 

今から70年近く前に開催された第14回会議はどのようなものでしたか?

 

第14回日米学生会議は1953年に上智大学で開催され、全体で100名近くの参加者がいました。参加者はそれぞれ部門ごとに分かれ、政治や経済、社会問題などのセクションがありました。私は社会問題を議論する部門に所属し、日本人学生18名程度、アメリカ側約10名の構成でした。日本側の参加者は学生でしたが、アメリカ側は進駐軍の兵隊さんや大使館の人、企業の日本代表の人など学生以外の年上の方々でした。テーマは、その当時に日米両国で問題になっていた、青少年の非行(Juvenile delinquency)についてでした。残念ながら、討論の内容は詳しくは覚えていないのですが、1週間共に過ごしたことで、確かに仲良くなりました。会議日程のうち、1日はアウティングといって、日帰りで箱根に全員で遊びに行き、今でもとても良い思い出です。会議が終わってからも、3、4カ月に1回リユニオンと称し、集まって飲みに行っていました。

 

【日米学生会議での経験とその後の進路について】

 

日米学生会議参加後、OBOGのみなさまは多種多様な方面の最前線で活躍されています。大学卒業後の富士銀行でのご経験をお聞かせください。

 

もともと英語には興味があったのですが、日米学生会議でアメリカ人とのディスカッションを経験して、やはり国際関係の仕事をしたいと考えていました。外務省も候補に考えましたが、先輩に強く誘われ、富士銀行に入行しました。当時、富士銀行も国際化を進めていて、国際関係の仕事ができる人間を採用したいとのことで、自分の希望にも沿っていました。

 

富士銀行に入ってから2年目に、人事部からアメリカ留学を打診されました。その後、フルブライト留学試験に合格し、1年間有給休暇をもらいました。当時ドルは手に入れるのが難しく、ドル資金は自分で工面する必要があったので、アメリカではカツカツの貧乏学生をしていましたが、結構楽しかったです。

 

留学から帰国した後は、富士銀行の外国部に所属し、国際関係の仕事を担当していました。ある時、ロンドンに証券業務の出来る拠点を作ることを企画したら、企画したやつが行けと言われ、ロンドンにマーチャントバンクと合弁の証券会社を作りました。1973年から6年間は、その子会社の初代支配人をしていました。その後、日本の国際部に戻り、アメリカの金融会社の買収に携わる中で、シカゴの会社に2年間出向しました。再度日本への帰国した後は、国際審査部長になり、海外向けの融資の審査を担当していました。それからは、取締役、常務取締役、副頭取、頭取を務めました。自分が頭取になることなんて、全く考えていなかったので驚きました。

 

富士銀行での波乱万丈なご経験を伺いましたが、特に大変だったことはありますか。

 

実は結構面白くて楽しい経験が多いです。

ただ、大変だったのは、ロンドンで新しい証券会社を作ったものですから、最初は大蔵省の厳しい規制があり仕事が無くて困りました。あまり収益にもならないので、それなら遊んでいても良いかと思い、ある時、スコットランドに旅行に行きました。そしたら、旅行中にロンドン支店から連絡があり、大蔵省の規制が変更されたと知らされました。至急日本に戻り案件を取りに行きましたが、その時は苦労しました。

1973年にオイルショックがありまして、中東の投資家とのつながりを作らないと、折角引き受けた証券が売れないわけです。なので、ひとりでサウジアラビアやクウェートに旅をして苦労しました。更に、途中飛行機が遅れて、空港で野宿をすることになり、最終的には現地の知り合いの家に泊まることができたのですが、大変な経験をしました。

色々ありましたが、今、振り返れば、なかなか面白い旅ではあったと思います。

 

【その後の日米学生会議との関わり】

 

大学一年の時に参加した日米学生会議でしたが、先輩後輩を含め多くの会議参加者は その後、政界、財界、アカデミック、ベンチャーなど様々な分野で活躍されていますので、社会人になってから仕事やプライベートに於いてもJASCerとの楽しい出会い、交流が多々ありました。日米学生会議には参加者OBOGからなる日米学生会議同窓会組織があります。同窓生の交流の機会を提供し、また現役JASCの活動を物心共に支援するのですが、私は2010年から2015年まで、日米学生会議同窓会会長を務めました。

 

また、会議創設者の一人板橋並治さんが理事長だった一般財団法人国際教育振興会が 第16回会議(1964年)以降、日本側の主催者となりましたが、日米学生会議を始めとする同会の国際教育交流事業・異文化理解促進事業を資金的に支援するために国際教育振興会賛助会が1978年に設立されました。私は2016年から2021年まで賛助会会長を務めましたが、賛助会名誉会長の高円宮妃殿下のご高配を賜り、多くの法人個人が会員になってくださって日米学生会議をご支援頂いておりますことに大変感謝しております。

 

【至誠惻怛~しせいそくだつ~の心】

 

橋本さんの生き方の軸となっている座右の銘を教えてください。

 

少し難しい言葉ですが「至誠惻怛(しせいそくだつ)」という言葉が好きです。至誠は「まごころ」、惻怛は「思い遣る心」を意味します。この言葉は有名ではないけれど、私の故郷岡山の偉人である山田方谷が好んで用いた言葉です。

 実は、この言葉は、2015年にノーベル賞を受賞した大村智先生も同年の正月の書初めで書かれていて、テレビに映っていました。私は驚きまして、大村先生に電話をしたら、先生の奥様が新潟県長岡の方で、その地の偉人である河井継之助が備中松山藩の山田方谷から贈られた言葉だということでした。英語に訳すのは難しそうですが、好きな言葉です。

 

【応募を考えている皆様へ】

 

最後に、日米学生会議への応募を考えている学生にメッセージをお願いします。

 

積極的に応募して欲しいです。日米学生会議に出席してアメリカ人と対等に話し合うためには、まず英語力が必要です。英語で何でも表現できる力というのは、とても大切だと思います。また、英語力だけではなくて内容も重要です。自分が議論をしたいテーマについて、よく勉強しておくことが、会議を楽しむ上で必要不可欠なのではないでしょうか。米国人はディスカッションが好きですからね。

みなさまの健闘をお祈りしております。

 

リユニオンにて(学生服姿)

 

箱根バス旅行にて(学帽姿)

編集後記

小溝舞(第72回日米学生会議実行委員)

深津佑野(第72回日米学生会議実行委員)