【第18回日米学生会議での経験:板橋先生からの生きた遺言】
山田様は第18回日米学生会議に参加されていますが、どのような回でしたか?日米学生会議創設者の1人である板橋並治先生からその後の人生を大きく決定づける薫陶を受けたとお伺いしておりますが、そのことについてお聞かせください。
私は1966年8月に開催された第18回日米学生会議に参加しました。国際教育振興会が主催者となって復活した第16回の時はオリンピックの年でもあり、日本人参加者は70名超でしたが、2年後の我々の時は選ばれた人数は20名前後でした。また実行委員長制ではなく、主催者がdelegation chairman(日本側代表団議長)を任命する形をとり、私が選ばれました。
本会議のために渡米した際、最初の数日間はホームステイでした。飛行場でホームステイ先が発表されると、なんと板橋先生と私が同じ家に滞在することとなり、大変驚きました。
板橋先生は当時の学生にとっては歴史上の偉人で、雲の上の存在でしたから。
ホームステイ先では板橋先生と同室に案内されました。ホテルのツインルームのような部屋でした。一日目の夜は緊張のあまり、自分のベッドの上で思わず正座をしてしまいました。少し慣れてきたころに、私は先生に、「素晴らしい機会を私たちに与えて頂き有り難うございます。けれど、先生、もっと大勢の人たちが交流できるようにできませんか」と聞きました。そうしたら、先生が少し厳しい顔をされて、「それは若いあなた方の世代がやることだ」と言われました。
私には、先生の言葉が、「国際人物交流を進めなさい」とおっしゃっているように聞こえ、心にものすごく響きました。気が付いたら「はい、わかりました」と、ただ一言発していました。「歴史上の偉人」の板橋先生の口から直接聞いたこの言葉をしっかり受け継ごうと心に誓ったものでした。
後年、私の人生を振り返りますと、実際何万人という若人を世界に送り出す仕事に携わることになりました。板橋先生のその一言で自分のライフワークが決まったことを思うと、それは文字通り板橋先生の「生きた遺言」でした。日米学生会議でのこの経験は、まさに私にとっての「Life-changing experience」でした。
【留学の機会を大衆に:『留学ジャーナル』創刊・「海外留学協議会」設立】
山田様は日米学生会議参加後に、1982年に『留学ジャーナル』を創刊、1991年に一般社団法人海外留学協議会を創設されていますが、どのような経緯を辿られたのでしょうか。
日米学生会議での板橋先生の言葉は一言だけれども大きな言葉で、そのご意思に沿って、私は国際交流や留学をより多くの人に広めるために『留学ジャーナル』を創刊しました。この雑誌を日本中の留学希望者に手に取ってもらいたいと願って始めました。最終的には、全国の書店や図書館、さらに大学の国際交流センターにも置いていただけるようになりました。
1970年代は留学支援を含む教育サービス業そのものが日本にも世界にもまだ無い時代でした。当時は、留学や教育をビジネスにするべきではないという風潮がありましたので、「留学ビジネス?!」とか揶揄されたりもしました。日本の大学教授からも、学位取得しなければ留学ではない、など色々と批判されることもありましたが、大学、大学院への留学志望者も語学留学から始める人も多くなり、最終的には有名新聞も留学大衆化の有用性について取り上げるようになるなど、少しずつ社会に認められるようになっていきました。
留学支援サービスの存在がようやく世の中に認められ始めたと感じてくると、新しく参入してくる会社が増え、様々な問題が起きるようになりました。そうすると、今度は、国会で留学支援サービス会社のあり方が問題になりました。私は業界のリーダーとして国会議員に呼び出され、協議の末に、規律を正すために業界団体を作ることになりました。それが、一般社団法人海外留学協議会(JAOS)で、私が今、会長を務めている団体です。
この団体が「認定留学カウンセラー」という資格を作り、近年、留学促進のための様々なプログラムを行うようになった文部科学省からの業務委託もあり、日本全国の教育委員会、大学、高校などで行われる留学相談で「認定留学カウンセラー」が活躍するようになりました。国際交流・留学の機会をより多くの人たちに提供するという大きな流れを日本でつくったという点においては、何十年も前の板橋先生との会話での約束は果たせたのではないかと考えています。
【国を超えた留学サービス業の根幹づくり:「世界留学事業者団体連合会」創設】
山田様は日本における留学サービス業界の発展だけではなく、世界中の留学サービス業団体の交流の促進にもご尽力されたとのことですが、それについてもお聞かせください。
日本で留学サービス業の業界団体が設立された頃、ドイツやフランスといった、英語圏以外のほとんどの国でも留学生を支援する為の留学サービス業が自然発生的に生まれてきていました。そこで私は、ヨーロッパから、アジア、南米まで多くの国を訪れて世界の留学事業者がつながる世界の連盟体の結成を提案しました。それが1997年に最初の会議が開かれ、2000年には、英国で法人設立された世界留学事業者団体連合会(FELCA)となり、その創立総会の議長を務めました。以降、Presidentそして Chairmanのお役を頂いています。
日米学生会議はよく「将来のグローバル人材の育成」と謳っていますが、会議の経験をきっかけに、日本国内だけでなく、国際的な活躍をされているOB.OG.が多くおられますが、私も国際的な仕事につきたいという学生時代の夢がJASC の経験のおかげで叶い本当にうれしいことと思っています。私たち世代の引退後も若い方々に是非引き継いでいってもらえたら、こんなに嬉しいことはないと心から思います。板橋先生の言葉が私を育ててくださったように、今度は私たちの世代が若い皆さん方にエールを贈りたいと思います。
【日米学生会議同窓会の充実へ】
山田様は日米学生会議同窓会の組織化にご尽力されたと伺っておりますが、どう進められたのでしょうか。
私が、というより同世代の仲間と一緒になって同窓会活動を創り上げてきました。1964年に再々開された後、有志が同窓会活動を始めましたが、1960年代に参加した若いOB.OG.はまだ少人数でしたし、皆さん30歳前で忙しくて暇も取れない人たちが多く、海外で留学や駐在して活躍されている方も多かったので、国内活動は先細りの状態でした。私が3年間のアメリカ滞在から戻った頃には活動は休眠状態でした。そんな時、私は、大髙巽さん(16回)から、「時間に余裕のある者同志で伝統を受け継ごう」と声をかけられ、喜んで一緒に動きはじめました。
1974年に日米学生会議創設40周年記念式典が開催されました。実行部隊が今のように整っていませんでしたが、その時も同窓会会長の板橋先生からご指名を受けて私は式典実行委員長をお引き受けして、高松宮殿下のご臨席の下、式典ではMC役を務めました。
アメリカからも創成期のJASCer も10数名参加されていました。板橋先生から紹介されたDr. Eleanor Hadley (2、3,4回)は、戦後のマッカーサーGHQ の財閥解体担当調査官で、当時29歳だったと伺いました。(この式典から30年後、自叙伝的回想録を出版されたと聞き米国の出版元で10冊ほど購入、持って帰ってきてすぐ同窓会幹部の皆さんと読みました。第1章に日米学生会議のことが書かれていました。ここでもJASC の歴史を実感しました)
この式典の時私が感じたのは、戦前の7回以前の日米両国の参加者(第1期グループ)とは板橋先生の関係でつながりがある、しかし各界の第一線で活躍されている戦後の第8回から15回の参加者(第2期グループ)とのかかわりが希薄ということでした。そこで板橋先生にお願いして第2期グループの中瀬正一さん(8・9回)を紹介していただきました。中瀬さんが先頭に立ってこの世代の人たちを日米学生会議同窓会の活動に関わって頂こうと働きかけが始まりました。こうして産官学の第一線でご活躍中の多くの2期グループのアラムナイとつながりました。この方々がその後、同窓会の会長、副会長などに就任されて確固たる組織となりました。その頃には板橋先生の身近で長年勤めていた伊部正信さん(国際教育振興会前代表理事 25,26回)が組織化してきた1970年代80年代の参加者たちの動きが中心になって大きなグループになりました。
こうして、戦前グループ、戦後の8回から15回までのグループ、2度目の中断後の16回からのグループの全世代がつながり日米学生会議同窓会の新しい伝統が作られました。
私は箱根駅伝のランナーのように前後の走者をバトンでつなぐ一走者の役目を果たせたかなと思っております。
【日米学生会議の応募を検討されている方へ】
最後に、日米学生会議への応募を考えている学生にメッセージをお願いします。
チャレンジ精神はいつの時代も若者の特権です。考えてもみて下さい。90年も前に、「アメリカ人学生と会議をしようという夢」を描き、計画を立て、米国に船で渡って、全米を行脚し100名の米国人学生、教職員を日本に連れ帰って会議開催を実現した学生がいたのです。彼らの実行力を思い浮かべ、現代の学生もグローバルな世界へのチャレンジの第一歩を踏み出してほしいものです。
左:第18回日米学生会議 本会議の様子
右:板橋先生と第18回参加者(後列、左から2番目が山田氏)
左:国際教育振興会(日本側主催団体)1966年秋発行の季刊誌『Nucleus』表紙
右:1966年秋発行の季刊誌『Nucleus』の記事