※HLAB
HLABは、多様な学びの体験、空間、コミュニティのデザインを通じて、異なる人生を歩む人々が互いの違いから刺激を受け、学び、共創する社会の実現を目指しています。身近な世代の他者との学び合いを促す「ピア・メンターシップ」と幅広い学問分野について学び合う「リベラルアーツ」を軸に教育プログラムを提供しています。2011年2月に発足。高校生向けリベラルアーツ・サマースクール(東京都、長野県小布施町、宮城県女川町、群馬県で開催)の企画運営、レジデンシャル・カレッジ (居住型教育機関)の設計開発・運営、教育機関や企業へのプログラム開発等コンサルティングサービスなどを事業として展開。2020年12月、東京下北沢にレジデンシャル・カレッジ第1号としてSHIMOKITA COLLEGEを開業。
【日米学生会議との出会い:未知の世界への挑戦】
日米学生会議を知ったきっかけは何ですか?
一学年上で中高が同じ先輩と大学で偶然すれ違った時に、「(日米学生会議で)実行委員をやっているから来年応募しなよ!」と言われたことでした。当時大学一年生の秋・冬頃でした。僕は全然帰国子女でもなく英語が得意でもなく、かつ理系でいわゆる社会学的な部分を学んできたわけでもありませんでした。本当に国際交流というものに一切身を投じたことがなくて、当時外国人の友達もいませんでした。そうした意味で自分にとっては未知な世界で、面白そうだと思って応募しました。
日米学生会議に期待していたこと、イメージしていたことは何でしたか?
当時日米学生会議については知らないことばかりで、日米関係については考えようとすることすらなかったです。アメリカ人の友達もいなかったので、まず友達を作りたい、ということは一つ大きな参加の動機でしたね。
あと春合宿ですぐに気が付いたのは、自分は相当狭い世界にいるということでした。理系の学生だったのですが、大学は男子ばかりで、また名門進学校の出身者が多い環境でした。春合宿で価値観が違う色々な大学やバックグラウンドの友達ができて、そうした狭い世界で生きてきたんだなというのを感じましたね。日米問わず日本側だけでもそれを感じ取れるところがJASC(Japan-America Student Conference 日米学生会議)の一つの価値なのかなと思っています。そこに期待していたというか、結果としてそれはすごく良かったのかなと思います。
【第61回日米学生会議:苦労した英語、魅力的だった日本】
参加された第61回日米学生会議はどのような会議でしたか?
色々と思い出しますね。そもそも10年経っても色々と思い出すのがすごい話だなとは思っていて、今後の人生でなかなかそんな経験はないのかなと思います。
僕は今HLABという教育事業をやっていて、一週間のサマースクールを高校生に提供するというJASCの高校生版のようなことをしているのですが、あれも彼らにとっては一生ものの思い出で、始めて10年程経って、「あの時はこうだった」のような話をしていますね。
若い年代で長期間寝食を共にする、場所・人・時間の過ごし方も変えて非日常の経験をすることは、一生ものの思い出になることなのだなと思います。
61回は日本開催で、東京・函館・長野・京都での開催でした。
まずすごく覚えているのは、東京の分科会のセッションで自分が何もパフォーマンスを残せなくて悩んでいたことでした。英語がとても苦手だったのでどうしようもないという感じで。偶然アメデリ(American delegates アメリカ側の参加者)に同い年の日系アメリカ人で日本語が分かる子がいて、仲良くなって相談しました。それで当時の僕の英語力だと、ディスカッションになってしまってはもう参加できないので、事前に分科会のアジェンダを考えつつ言うべきことを自分の中でまとめて、ディスカッションの冒頭で言いたいことを全て言うということをしていました。当時僕は最年少だったこともあって、そんな形で自分の立ち位置・役割を模索していましたね。
函館で覚えているのが、確か函館のフリータイムの観光の時間だったと思いますが、五稜郭に行った時のことですね。函館は土方歳三が最後に亡くなったところなのですが、偶然新選組が好きだったのでそこの歴史に詳しくて、拙い英語でしたが頑張ってアメデリ(American Delegates アメリカ側の参加者)を案内しました。彼らはすごく楽しんでくれて仲良くなって、すごく自己肯定感が上がる体験ができました。それはすごく自分の中で記憶に残っています。
長野は小布施という小さな町に行きました。これも僕にとってはLife Changingだったのですが、まず僕は今も小布施で仕事をしていますし、そこで出会ったホームステイ先と今でも定期的に繋がっています。小布施という町と自分がまさか一緒に事業をするとは思ってもみなかったので、まずこのJASCでの出会いが大きかったかなと思いますね。
【第62回日米学生会議:実行委員としての苦労と学び】
第62回日米学生会議はどのような会議でしたか?
僕にとって、とてもチャレンジングな1年でした。
英語は飛躍的に伸びました。アメリカ側実行委員のパートナーと日本側実行委員の仲間のおかげです。パートナーの子がスカイプで事前の打ち合わせを何度もやってくれて、英語がすごく上手くなったなという自覚がありますね。
当時高田さんは実行委員として「社会起業家」という分科会の担当をされていました。現在の活動にも繋がるものがありますか?
すごくありますね。当時はリーマンショックの直後(2010年)で社会起業家という言葉が少し広まり始めていました。特に日本はNPOの法制度もしっかりしていなかったので、ちょうどアメリカに行けるなら本場を見てみたいという気持ちもありました。
分科会のテーマについてはかなり悩みました。「環境問題」なり「南北問題」なり、何か大きな問いを設定してそれに答えていく分科会の方が運営は楽だと思っていましたが、「社会起業家」は存在そのものについて考える分科会じゃないですか。案の定運営は大変ではあったのですが、結果として良い着地ができたかなと思います。
例えばワシントンDCのフィールドトリップでは、今でもありますが現地でASHOKAという社会起業家支援をしている有名な財団を訪問して、素晴らしい取り組みを見せてもらいました。ホームレス問題に対しての取り組みなどが今でもすごく印象に残っていますね。
サンフランシスコにも行きましたが、白内障の手術を安価で提供するような事業で、社会起業家的なことをされているJASCのOBがいらっしゃいました。アラムナイということで繋いでいただいて、インタビューをした記憶もありますね。
実行委員を務める中で1番大変だったことは何だったでしょうか?
大変だったことは一杯あるのですが、印象に残っているのは、分科会でアメデリに不真面目な子がいたことですかね。
毎回遅刻したり、議論に積極的に参加しなかったりする子でどうにかしなきゃいけないなという思いがありました。
振り返ればお互い子供だったなと今では思うのですが、自分が準備してきたものに対して不真面目に参加されたことに腹が立ったのですね。少し感情的にもなって、部屋でその子を2時間くらい説教しました。「なんのためにJASC来たんだ?」のようなところから始まって(笑)。それはすごく覚えています。
振り返るともちろん幼かったというのはあったのですが、最初はこんなに英語が苦手だったと言っていたのに、よく英語で2時間説教し続けられたなと思いますね(笑)。
言語を問わず、人間は伝えたいことがあれば、こんなに話せるんだとも感じました。その後本人は真面目に積極的に参加してくれて、仲良くなりました。
62回会議について、ほかに印象的だったことはありますか?
思い出すのは、ニューオリンズに行ったときのことです。第二次世界大戦の戦争博物館があって、そこを訪問した後に皆でディスカッションをしました。
戦争博物館での思い出は、まず日本の扱いがものすごく小さい。僕らにとって第二次世界大戦は、パールハーバーが始まりでクライマックスは広島・長崎ですが、彼らからすればメインの敵はドイツ・ヒトラーであり、クライマックスはノルマンディー上陸作戦なのですよね。博物館で大戦の流れの全貌をみせる屏風のようなものが展示されていましたが、日本について書かれていたのは本当に原爆の投下の部分だけでした。原爆を落としたことが日本を封じ込めることにつながった、という戦争に関する日米の教育の違いを感じましたね。
【現在のキャリアとの繋がり:HLAB発足への出会い】
JASCはその後のキャリアにどう繋がりましたか?
まずJASCがなければ僕はこの会社をやっていなかったと思います。
HLAB代表理事の小林君は当時アメデリで参加していたハーバード大学の学生で、彼が教育の分科会に参加していて、僕が社会起業家の分科会に参加していました。その分科会で提案した話がHLABのサマースクールの初期構想で、それを机上の空論ではなくて実際にやってみようという話になったのが最初のきっかけです。
その年のJASCが2011年で、翌年にはサマースクールを実際にやっていました。3年目にはJASCで訪問した小布施でやることになりました。これは61回会議の時に実行委員をしていた大宮君が、JASCをきっかけに小布施に移住したので、町長と繋いでもらって実現したものです。そのような感じでどんどんと繋がっていきました。
当時僕はまだ学生だったので、会社にしようとはまだ思っていなかったのですが、自治体と一緒に仕事をしていくうちに会社じゃなければダメだということになりまして、会社にしました。僕はそのあとしばらくコンサルで働いていたのですが、そのさらにあとにHLABに戻ってきて、気が付けば5年が経っています。
教育に興味を持ったのは、JASCがきっかけでしょうか?それとも元々興味があり、JASCで議論を深めた形でしょうか?
元々興味はありました。僕は教育分科会ではなかったのですが、その分科会のメンバーと同じような問題意識は持っていました。地方であれば偏差値だけでまずは地方の国公立を目指しなさいという進路指導がなされ、いわゆる首都圏の進学校であれば東大なり医学部なりを目指す雰囲気があり、誰もそこまで真剣に進路指導・進路選択を考えない。日本の高校生の多くはそうなのかなと思うのです。今はだいぶ改善されたかなと思いますが、当時はその問題意識があって、それにアプローチできるようなプロジェクトを始めたという形ですね。アイディアをブラッシュアップしたのは小林君ですが、一緒に話していてそろそろやらないとね、という話になりましたね。
HLABを事業として続けていく上で、日米学生会議のネットワークは役に立ちましたか?
人との出会いはそうだと思います。教育に興味があって、一緒にディスカッションに付き合ってくれる仲間と出会えたことは大きかったです。
ただ、最後はやっぱり個人の覚悟の問題だと思います、やるって腹をくくれるかどうか、ですね。
良い意味で当時は無鉄砲でしたね(笑)。今同じことはできないです。1000万円を、寄付で集めて、失敗したら自腹で払わなければいけない。大変そうだし辞めよう、となるのが普通だとは思います。でもなぜか当時はならなくて、「いけるんじゃね?」という根拠のない自信が全員の中にありました。実際にやり始めるとお金が集まらなくて現実も見たのですが、いけるという自信があったことは大きかったですね。
あとはJASCのネットワークをフル活用できるような事業だった、というのが大きな要因でしたね。最初はハーバード大学生のみの事業でしたが、それ以外の大学生を集める時に当時のJASCの友達に聞いたり、JASCが終わった後日本で働いている友人に人を紹介してもらったりもしました。僕は今米国大使館とも仕事をしていますが、それも最初に出会ったのはJASCがきっかけでした。
高田さんは第62回日米学生会議報告書の中で、JASCの意義は「未来の日本への投資」であり、自分たちが卒業生としてそれを証明する必要がある、と書かれていました。HLABのような事業はそうした証明の一つのようにも思えます。
【日米学生会議の応募を検討されている方へ】
これから応募される学生にメッセージをお願いします。
高校生でHLABに参加して、大学生でJASCに参加して、HLABの運営委員として大学生で帰ってくる、というのが僕の理想です(笑)。
冗談のように言いましたが、最近のJASCer・実行委員の中にも複数HLAB生はいて、親和性はあるのでおすすめします。
ただそれはJASCとHLABとで根本が共通しているところがあるからだと思っています。僕たちはそれを「ピア・メンターシップ」と呼んでいますが、お互いがメンターでありメンティーである、という関係性を重要視しています。
教育というと、どうしても「プロ(先生)」から「アマチュア(生徒)」が習う、という20世紀型の教育の構図があると思います。その中で「ピア・メンターシップ」は、お互い全くバックグラウンドが違うのだから、時には自分が先生であり、時には相手が先生である、という関係性とマインドセットがあれば、互いの違いがコンフリクト(対立)にならずに学びに変わる、という考え方なのです。
現代のJASCは同じ考え方を持っていると僕は思っています。昔は日米の全く異なる文化を理解しようという動きがあった中で、今は日米だけではなくて、アメリカの中でも違いますし、日本の中でも全然違う。だからこそ各々がバラバラの背景を持つ中で互いの違いをコンフリクトではなく、学びに変えていこうという考え方をJASCは持っていて、それがとても大事だなと思っています。
日米学生会議には「米(アメリカ)」とついていますが、もはやそうした時代・次元ではないのかなと思っていて、当然そこには日本のバックグラウンドを持ったアメリカ人もいると思いますし、全然違う国のバックグラウンドを持った人もいると思います。なので、応募する方はそこの多様性を楽しむマインドセットが大事です。ぜひ、参加してみてください!