VOICE

参加者の声

公開日:2022.04.18

「万難を排して挑め!~JASCネットワークに支えられて~」

第46回日米学生会議参加、第47回日米学生会議日本側実行委員長。1973年生まれ。東京大学文学部卒業後、1996年海外経済協力基金(後に国際協力銀行)入社。サンクトペテルブルク大学(ロシア)留学や、ミシガン大学(米国)での公共政策学修士を取得後、2005年にドリームインキュベータ入社し、アジア事業を中心に活躍。2022年現在、同社取締役副社長COOを務める。
細野恭平(ほそのきょうへい)第46回参加、第47回実行委員長

【第46回日米学生会議への参加:ダイバーシティの衝撃】

海外への関心から参加された第46回日米学生会議では、どのような経験をされましたか?

第46回日米学生会議(1994年開催)では、ノースカロライナ、ワシントンD.C.、ニューヨーク、シアトルの4都市を訪問しました。私にとっては、初めてのダイバーシティのある会議への参加で、自分自身の価値観を大きく変える体験ができましたが、実はアメリカに行った時のダイバーシティの経験よりも、日本人の中でのダイバーシティのインパクトの方が大きかったです。

例えば、昔ながらの田舎の男社会で生まれ育ってきていた私と、東大の医学部看護学科の学生との間で議論になったのが、「看護師の役割はなにか」というトピックでした。当時の僕は、「看護師は女性的に優しければいい」という、今思えば恐ろしく前近代的な考えを持っていたのですが、彼女はそれに対して、「そんなはずはない、医師の代わりに医療知識を持って適切な処置をできる看護師が増えるべきだ」と主張していました。ジェンダー平等が前提となってきている今の社会においては、彼女は100%正しいことを言っていたのですが、当時の僕には彼女の考え方がきわめて先進的に聞こえました。このような議論を経て、自分の中の古い価値観が破壊されていくという経験がJASCの中では繰り返し起こっていったことで、自分自身の考え方はかなりリベラルになったし、そんなリベラルな環境に自分の身を置けたということが良かったことだなと思っていますね。

 

【第47回日米学生会議実行委員長として:硫黄島訪問での学び】

細野様が日本側実行委員長を務めていた際、日米学生約 50 名で硫黄島を訪問する前例のないプログラムが行われました。その際のご経験についてお伺いしたいです。

硫黄島はもともと、2020年4月にコロナで亡くなられた外交評論家の岡本行夫氏を講演でお呼びしたのがきっかけでした。その講演の中で、岡本氏が、「今年は戦後50年。日米学生のような人たちが戦争の激戦地に行って、お互いに手を取り合ったりすることが将来の日米関係の礎になるんだよ」と強くおっしゃっていた言葉が非常に強く頭に残りました。そして、ぜひそれを自分の代の日米学生会議で実行したいという思いが、硫黄島訪問に繋がりました。

硫黄島にはそもそも自衛隊基地しか存在せず、民間人は行くことが出来ないので、外務省と防衛省の協力を仰ぎ、自衛隊の飛行機を飛ばしていただきました。訪問当日は、日米学生会議の大先輩である宮沢喜一元首相やアメリカ側はラスト・M・デミング主席公使(当時)に参加してもらい、10社くらいのメディア関係者も飛行機に同乗しました。現地では献花やディスカッション、宮澤元首相との記者会見に参加するなど、メディアにも多く取り上げてもらうことができました。

私にとっても、初めて硫黄島に足を踏み入れて、最初に感じたことはこの島は人間が住むような場所ではないということでした。ここまでの遠方の場所で日本とアメリカの兵士が戦闘をしなければならなかった戦争の悲惨さ、全く水が取れないところに地下壕を掘って戦い、力尽きた多くの日本兵の無念さ、海の彼方の故郷に思いを馳せながら、辺鄙なこの島で戦死を遂げた米国兵の悲しみを痛切に実感する貴重な機会になりました。

第47回日米両学生は戦後50年にあたるこの年に、硫黄島での戦没者の冥福を祈り、日米平和のために更なる相互理解を深めようと誓いました。

   

硫黄島訪問を取り上げた新聞記事(左:日本経済新聞 1995.11.27 右:東京新聞 1995.8.19)

The Japan Times(1995.8.19)にて取り上げられた日米学生会議の活動

 

【日米学生会議での経験とその後の進路について:グローバルな活躍の土台にあるJASC】

大学卒業後のキャリアを歩まれるにあたり、日米学生会議でのご経験や、そこで得られた人との繋がりはどのように生きましたか。

JASCでの経験は、私のキャリアの前提になっていると言っても間違いないです。大学卒業後は、海外経済協力銀行(後に国際協力銀行)というODAで円借款と言われる長期の貸付金を途上国に出して、空港や道路の整備などをする政府系金融機関に入りました。最初にこの仕事を選んだのは、JASCで広げたグローバルな視野から、国際舞台で働くというのが自分の中で大前提になっていたからだと思います。しかも、当時の同期11人中、3人が同期のJASCerでした(笑)。その後は、大学で学んでいたロシア語と、JASCでの経験を生かして、様々なプロジェクトを担当しました。

2005年には、現在取締役副社長を務めるドリームインキュベータに参画しました入社当初は国内の大企業向けに戦略コンサルティングをメインにやっていましたが、2010年から2017年までベトナムに赴任し、アジア事業を統括しました。日本帰国後も、グローバル事業や、インドへのベンチャー投資等の海外事業に携わっており、JASCでの経験は自分が国際的に活躍する上で土台となっています。

加えて、人間関係についても、JASCが私に与えた影響は大きいです。30代半ばからJASCの同窓会活動にも参加するようになりましたが、当時は同窓会幹事の中で断トツに一番後輩だったこともあり、総会の運営などを担当させていただきました。先輩にあたる周りの方々は政財界各方面で活躍されている方ばかりであり、後々に色々なネットワークをご紹介していただいたり、お仕事を一緒にさせていただいたりと、結果的には、同窓会活動も今の自分の仕事に繋がっています。

 

【日米学生会議の応募を検討されている方へ:JASCは稀有な経験が得られる最高の機会】

日米学生会議では、他では決してできないような、かけがえのない経験をすることができます。万難を排して参加いただくことを強くおすすめします。それぞれの人によって得られる事は違いますが、今後ダイバーシティや、個人としてどう生きていくかが問われる社会になっていく中で、日本の中に閉じこもっていては理解できないものを実体験として経験できるJASCは非常に貴重な機会だと思いますので、是非みなさん参加していただきたいです。

栗山尚一駐米大使(当時:写真中央)との集合写真(右から3番目が細野氏)

編集後記

小溝舞(第72回日米学生会議実行委員)
深津佑野(第72回日米学生会議実行委員)